1983年(昭和58年)夏【1年目・結成】
「とにかく、下手でもいいから試合に出たい!」そんな富山松下電器野球部のメンバー4人が立ち上がったのは、1983年の夏が終わろうとしている時だった。平野・北宮・横山・浅谷、この4人の英断が、これから始まる壮大なドラマを作ったのです。歴史が動く時は強烈なエネルギーが発せられるもの。一挙に15名の選手を集めた俄(にわか)草野球チームは、プロ野球の「名球会」をもじっての「明球会」として誕生した。当時としては奇抜なツートンカラーのユニホームに身を包み、颯爽とデビューを果たしたのでした。後に歴史を刻む立役者の、平木・湯浅・開・北島も創設メンバーです。初代監督には北宮、部長には平野が就任。記念すべき初試合は9月18日砺波市市長杯での老松自動車戦、結果は7対5で勝利(勝利投手・平木、本塁打・浅谷、二塁打・平野)明球会初安打は平野が放った。その後も勝ちを重ねベスト4まで進出する華やかな快進撃は、砺波市に「明球会」有りと印象付けるには十分でした。初代MVPは平木が受賞。
1984年(昭和59年)【2年目】
将来の鍵を握る中嶋が入部。「全員が楽しく好きな野球が出きるチーム」としてのスタイルが確立された年です。湯浅が三冠王に輝く。
監督が北宮から平野に変更。
1985年(昭和60年)【3年目】
油田リーグに加盟。3勝5敗2分でリーグ3位(6チーム中)となる。
1986年(昭和61年)【4年目】
永原・布江が入部。投手不足に悩む「明球会」にとって貴重な補強に成功する。ここから永原-布江の黄金バッテリー時代が始まった。
将来の監督候補永原が入団1年目にして三冠王を達成。
1987年(昭和62年)【5年目】
石崎・藤崎が入部。優勝とは無縁だった「明球会」が、油田リーグトーナメントで初優勝。
1988年(昭和63年)【6年目】
東日本2部大会で準優勝(決勝戦は県信用組合に2対9で敗れる)。中嶋と布江がボーズを賭けて打率争いを展開、軍配は中嶋に上がるが布江は逃げてボーズにしなかった。
1989年(平成元年)【7年目】
北日本新聞朝間野球大会で、高波クラブ相手に0対0の緊迫した試合、延長8回浅谷が決勝弾を放ち、永原は8回零封の快投で強豪高波クラブに1対0で勝利。
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中部日本大会出場の映像
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